谷崎と奈良の旅館武蔵野



津村は何日に大阪を立つて、奈良は若草山の麓の武蔵野と云ふのに宿を取つてゐる、──と、さう云ふ約束だつたから、此方は東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云ふ旅館は今でもあるが、二十年前とは持主が変つてゐるさうで、あの時分のは建物が古くさく、雅致があつたやうに思ふ。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水とが一流の家であつた。(谷崎潤一郎「吉野葛」1931)



「吉野葛」は、「今」から「20年程前」の出来事を回想して語る設定だが、谷崎本人が「吉野葛」執筆の旅に出たのは昭和5(1930)年秋のことである。その前年にも奈良・吉野を訪れているから、この時もここに逗留した可能性は高く、引用文中の「今」というのはこれらの時を指すと考えていい。
武蔵野旅館むさし野は現在も谷崎が投宿したのと同じ若草山麓にある。もっとも、引用文中でも持ち主が変わったことが述べられているように、経営者はいくどとなく交替している。現在は、戦後に売却されていた旅館を現在の女将さんのお祖母様に当たられる方が購入され、吉野の下市から移り住んで来られてから3代目だという。
おそらく谷崎が訪れたものと思われる旅館の母屋は、平成4(1992)年の火災によって焼失、上の画(前田虹映『若草山大観むさし野図』(昭和初期):むさし野提供)にも描かれている茅葺きの別館は辛うじて難を逃れたが、平成18(2006)年に落雷によってこれも焼失。往時を伝える建物はうしなわれている。

「武蔵野」という名からして、東京方面にゆかりの者が創業したのかと思えば、さにあらず。この若草山西麓の一帯は相当に古い時代から「武蔵野」とも「武蔵ヶ原」とも呼ばれた土地なのだ。大納言兼武蔵守であった良峯安世(785-830)の墓と伝えられる「武蔵塚」が付近の手向山八幡のあたりにあった(『大和名所記』1681)ことから、そのように呼ばれるようになったのだという。『大和名所図会』(1791)には、伊勢物語12段の「武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌とともに武蔵野の地名が紹介されている。
旅館武蔵野に関しては、奈良の名所を漢詩に吟じた『寧楽百首』(1851)に次のように取り上げられている。

第97番 武蔵亭
西風早至武蔵亭 墨客詩人携手行 後庭虫与前峰鹿 夜夜悲秋鳴月明

現在の旅館むさし野が建つ若草山山麓はおもに観光客が訪れるエリアという印象が強いが、かつては、寿司屋や料亭などが建ち並び、日常的に人通りの絶えない往来であったという。旅館むさし野を訪れると、明治17年当時の旅館を描いた版画がロビーの一隅にひっそりと飾られている。洋装の紳士が俥で乗りつける料亭の様が描かれていてモダンな雰囲気を醸し出している。谷崎が「雅致」を見た当時の旅館武蔵野の面影は、その版画のみが今に伝えている。
協力:古都の宿むさし野

※諸事情のため、4月に取材・執筆した内容を別のサイトから転載しました。

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