日本近代文学会・昭和文学会・日本社会文学会 合同国際研究集会

初めての試みとなる近代文学関連3学会合同の国際研究集会が、2019年11月23・24日の2日間にわたって、明治大学(23日) 、共立女子大学・二松學舍大学(24日)で開催されます。大会テーマは「文学のサバイバルーネオリベラリズム以後の文学研究」。
>>詳細はこちら(合同国際研究集会公式サイト)

このうち、2日目分科会のパネル発表に登壇します。

◇高橋幸平・日高佳紀・久保昭博・服部徹也
《パネル》フィクション論で問い直す近代日本文学

日時:2019年11月24日(日)10:00〜12:00
会場:共立女子大学3号館3階305(会場〈8〉)
(発表趣旨)

フィクションとは何かーー?
フィクション概念は、文学表象について語られるとき、とりわけ多くの誤解と混乱を呼び込む。「フィクション」を「非現実」や「嘘」の言い換え、あるいは「小説」の同義語とみなすナイーヴな用法から、虚構性を文学性と混同する文学研究者の傾向、さらにはあらゆる言説をフィクションと見なすポストモダニズムにいたるまで、この概念はしばしば錯綜した議論を生んできた。
フィクションがフィクションであるためには、表象のあり方や呈示のされ方、それを取り巻く文脈など、様々な条件が必要である。本パネルが立脚する「フィクション論」は、表象をフィクションとして成立させるシステム自体、すなわち「フィクション性(虚構性)」を研究する立場である。現在、フィクション論は人文諸科学において多様に広がっている。虚構性の概念は、分析哲学の議論を源流として可能世界意味論・言語行為論・ごっこ遊び理論などの観点から分析され、また、構造主義詩学を批判的に継承する文学理論家たちもフィクション的言説をめぐって様々に発言している。さらに認知科学では、フィクションを生み享受する人間の能力の発生/発達に関する研究もある。
フィクション論から文学を問い直すということ。それは、私たちの認知や文化にとってフィクションが持つ重要性を意識し、私たちが文学と呼ぶ言語的表象のあり方を新たに記述し評価することである。虚構性の検討を切り口に、文学に再び積極的な意義を求めるこの研究は、文学研究を他の人文諸領域に接続し、より広い人間学=人類学(アンソロポロジー)の一部となすことができる。
近代文学研究においてフィクション論は、文学テクストの新たな解釈、日本の虚構論の再評価、文学史の捉え直し、メタフィクションの分析などに援用されるだろう。本研究パネルは、フィクション論に基づく文学研究の実践例として、西洋のフィクション論を整理した上で、近代日本における文学論の再評価を目指す。フランス文学・文学理論の専門家であり、ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』の翻訳者でもある久保昭博、日本近代文学を専門とする服部徹也と日高佳紀の3名のパネリストに、司会・ディスカッサントとして高橋幸平が加わる。
久保は、フィクションを人間に備わる「心的能力」の一つとする人間学=人類学的なアプローチを提唱し、現代フランスの文学理論・芸術理論に新たな展開をもたらしたシェフェールの議論を紹介しつつ、「共有された遊戯的偽装」という彼のフィクション概念が、文学研究、とりわけ西洋とは異なるフィクションの伝統を持つ日本文学の研究にいかに寄与するかを考察する。
服部は、西洋の心理学や演劇研究を参照して成立した『文学論』(1907)と、18世紀の英文学を論じた『文学評論』(1909)とに通底する夏目漱石のフィクション観を考察する。特に、漱石が演劇と対比して小説を考察したこと、そして「嘘」「騙す」「催眠」などの語彙によりフィクションへの没入を描こうとしたことに注目しながら、1908年に田山花袋との間で生じた「拵へもの」をめぐる論争を再評価する。
服部の発表を受けて、日高は、漱石文学と「拵へもの」を論じた「「門」を評す」(1910)以来、1930年代に至る谷崎潤一郎の評論を、フィクション論の観点から捉え直す。「うそ」「虚構」を問題としながら、時代ごとの文学と切り結ぼうとした谷崎の文学観を明らかにする。
以上の検討を通して、文学研究におけるフィクション論の可能性を示すとともに、西洋由来の文学理論を経由することで、日本語・日本文学の特殊性をも浮かび上がらせたい。